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イタリアの風:Chigusa Kuraishi Blog

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Brother Sun, Sister Moon

ペルージャのウンブリア国立美術館で重要な企画展が開催されています。「ブラザー・サン シスター・ムーン」イタリア語ではフラテッロ ソーレ ソレッラ ルーナという1972年フランコ・ゼフィレッリ監督の映画と同じタイトルのタイトルがついています。来年がアッシジの聖フランチェスコ(1182年ー1226)没後800年にあたり、2025年はジュビレオ(25年に1度の聖年)の年でもあり、各地で色々な行事が行われ、世界中からカトリック教徒がローマに訪れるため、中部都市のペルージャでもこうして、重要な展覧会が行われています。
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[#Iサブタイトル アートの中の自然、ベアト・アンジェリコ、レオナルド、コローまで聖フランチェスコといえば、The Canticle of the Sun で有名です。これは、宗教を超えた哲学的でもある自然を謳歌した広い世界観の素晴らしい詩であり、私もとても好きです。戦争の危機と経済不安と、自然破壊が心配される現在、「裸」で清貧を説いた、そしてこのThe Canticle of the Sun は私たちに希望を与える今この時重要な世界観の歌だと思います。すでに5000人がこの展覧会を予約したと美術館の公式サイトで書いています。キュレーターは美術館ディレクター コスタンティーノ ダォラツィオ氏 Costantino D’Orazioヴェルスカ ピッキャレッリ教授 Veruska Picchiarelliカルラ スカリオージ教授 Carla Scagliosi80点を超えるイタリア、ヨーロッパの絵画を集めての展示で、Pisanello (ピサネロ)、Michelino da Besozzo (ミケリーノ・モリナーリ・ダ・ベソッツォ)Paolo Uccello(パオロ・ウッチェロ), Jan van Eyck,(ヤン・ファン・エイク)Beato Angelico(フラ・アンジェリコ), Piero della Francesca,(ピエロ・デラ・フランチェスカ) Leonardo da Vinci(レオナルド・ダ・ヴィンチ), Leon Battista Alberti(レオン・バッティスタ・アルベルティ), Albrecht Dürer(アルブレヒト・デューラー)Lorenzo Lotto,(ロレンツォ・ロット)Dosso Dossi (ドッソ・ドッシ)Giambologna(ジャンボローニャ)Jan Brueghel il Vacchio(ヤン・ブリューゲル)、Domenichino(ドメニキーノ)Annibale Carracci (アンニーバレ・カラッチ)、Nicolas Poussin(ニコラ・プッサン)Salvatore Rosa(サルヴァトル・ローザ)、Giambattista Piranesi (ジャンバティスタ ピラネージ),Jean -Baptiste Camille Corot(ジャン=バティスト・カミーユ・コロー)など、いずれも自然と人間の関わりを表現している作品が展示されています。今2026年のために個展を計画している(場所は未定)私のテーマ「Mimesis ミメシス」のために、読書を進めている最中なのですが、ちょうど、イタリアのルネッサンス期の叙事詩Ludovico Ariosto によるOrlando furioso(ルドヴィーゴ・アリオストの狂えるオルランド)を読んでいたので、この展覧会のポスターになっているイメージはドッソ・ドッシの作品で、この本に出てくるMelissaメリッサが描かれています。(クリスティーナ・ガラッシ教授:ペルージャ大学美術批評史の先生に教えて頂きました)これを知り、不思議な偶然を感じて驚きました。
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この展覧会は2025年3月15日から6月15日までペルージャのウンブリア国立美術館で開催中です。
# by Art-Chigusa | 2025-03-16 04:51 | Art アート

ピロッタ宮殿 パルマ 複合芸術文化施設

パルマにあるピロッタ宮殿は、元はルネッサンス様式の建築で、ドゥーカ:公爵だったオッラヴィオ・ファルネーゼ(1524−2586)によって、建設が始まり、オッタヴィオの死後も、アレッサンドロ・ファルネーゼ(1545−1592)が建設を引き継ぎ、その息子ラヌッチォ・ファルネーゼ(1583年ー1622年)なんと3世代が関わっていたようだ。ラヌッチョ・ファルネーゼは、かの有名な美術収集家イザベラ・デステの夫だった人。イザベラ・デステは、マンテーニャ、ペルジーノ、コレッジョなどに作品制作を発注し、レオナルドやティッツィーノも彼女の肖像画を描いている。ピロッタ宮殿は1611年に建設工事が未完のまま現在に至っている。中庭で遊んだ「ペロータ」という球技にちなんでこの名がついたそう。国立考古学博物館、ファルネーゼ劇場、国立絵画館、パラティーナ図書館、ボドニ美術館があるコンプレッソ・モニュメンターレ(複雑な記念建造)で、これらすべてがこの宮殿に集中している。
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ファルネーゼ劇場は、類をみない美しさの迫力の木造の劇場で、美しい内装で圧倒される。映像が見られるので、またゆっくり来なければーと感じた。私が入ったら、すぐにその映像がちょうど終わったところだった。
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この日は絵画館をゆっくりーでもないが、全部1周したら、結構疲れて、食傷気味になった。こういう時には、ミニマルアートとかすっきりとした抽象絵画などの現代アートを観たくなる。しかしながら、ファルネーゼ家のお宝は、ローマ(ミケランジェロが1515年設計したファルネーゼ宮:現フランス大使館)ヴィラ・ファルネーゼ(カプラローラ:ヴィテルボ付近)やピアチェンツァ(ファルネーゼ宮殿)ナポリ(カポティモンテ美術館)にもあるようで、それに比べると、量も質も小規模だとみる研究家もいるが、確かにパルマのコレクションは、ナポレオンがパルマを統治した後にかなりフランスに重要な作品が流出しており、それはパルマやトリノ(パラッツォ・レアーレ:トリノ王宮)の美術館に行くと、いかにその時代以前に作品がイタリアに存在していたかがよくわかる。しかしながら、未完の作品と言われる天才的で詩的なレオナルドのラ・スカピリアータ:ほつれ髪の女:1492−1501だけを観ても、足を向ける価値が充分ある。この作品については、レオナルドの「聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ」「岩窟の聖母」の習作という説と、レオナルドの弟子による作品という説が存在する。
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注目は、パルミジャニーノのトルコの奴隷:スキャヴァ・トゥルカで、ターバンのような頭飾りが1532年この絵が描かれた当時流行しており、高貴な女性たちが当時していた髪型で、イザベラ・デステが流行らせたという。
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他にもいい絵はたくさんあった。ベアト・アンジェリコ、コレッジョ、チーマ・ダ・コネリアーノ、ボッティチェッリ、エル・グレコ、カナレット、ティエポロ、カノーヴァの彫刻・・・いずれも私の大好きな芸術家たちだ。
# by Art-Chigusa | 2024-08-20 18:18 | Art アート

イタリアのシルヴィオ・ベルルスコーニ元首相が12日、入院先の病院でお亡くなりになりました。86歳でした。

シルヴィオ・ベルルスコーニ元首相がお亡くなりになった。建築業、民放局のテレビ・新聞・出版の「メディア王」、政治家、ミランの会長、その後モンツァの会長・・・人の4倍、5倍の職業を持っていた。影響力の非常に大きな人物だった。イタリアの一つの時代が、彼と共に終わったと言える。ミランは多くのタイトルを獲得し、一番成功した会長で、日本人の本田圭佑さんが、まだベルルスコーニ会長がミランの会長だった時にミランに在籍した。私は2007年、アテネでミランがチャンピオンズリーグ優勝を果たした時に、アンチェロッティ監督だったが、現地で取材できたのは最高の思い出だ。インザギの2ゴールでリバプールを2−1で下し、7度目の優勝を果たした。アリゴ・サッキ監督と、オランダ人の選手たち(フランク・ライカールト、マルコ・ファンバステン、ルート・フリット)のミランは、多くのファンを魅了して、日本人がミラノにミランを追いかけて、移り住むほどの影響力があった。私が近くで初めてベルルスコーニ会長にお会いしたのは、元日本代表MF中田英寿が、パルマの選手だった時に、ホテルで昼食後にお昼寝の休憩をしていた。その階はすべて貸切で、全身黒のスーツを着た護衛がたくさん部屋の外で待っていた。直撃取材で、話しかけたが、すぐに車に乗り込んで行ってしまった。中田英寿さんもミランに移籍しそうだったが、もしパルマでなく、ミランに移籍していたらどうなっていただろう。その後、ミックスゾーンで何回か話しかけて、話したことがあった。駄洒落を交えたお話が面白い人であった。カーサ・ミランが建築された時に感じたが、どこにもないような最先端のテクノロジーを使用したミランの歴史を語る部屋や、ペリコプターの展示、斬新なデザイン、とにかく、ベルルスコーニ元会長は、時代を先取りしていたイノベーションの人であった。インタビューしたい人でもあったが、その機会がなくて残念だった。ご冥福をお祈りする。
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# by Art-Chigusa | 2023-06-13 23:41 | Sports

イエスの聖衣とフランシスコの僧衣 La TUNICA e la TONACA

1990年ペルージャの外国人大学に留学した私は、Torre degli Sciri (プリオリ通り)の当時は修道女たちが経営している女子の寮に住むことになった。La Torre degli Sciriは中世の塔で1200年から1300年ごろの古い歴史のある建物。1488年にはバリオーニ家の貴族オッドの家の一つだった。1680年にルチア修道女が、親のない女の子や、貧しい少女たちを集めて、祈りを捧げながら、フランチェスコ会の指導のもと仕事を教えて生活していた。その後、献身的な修道女S.Filippo Neriが、継いでいた。私が留学した1990年もこの建物はサン・フィリッポ・ネーリと呼ばれていた。2011年10月24日修復し、ウンブリア州、ペルージャ市が、管理することになったようだ。
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1990年に初めてペルージャを訪れた私は、まず、この中世の塔に私がペルージャに到着する前に日本から留学されていた、テクラ大岩シスターを頼って、ここに宿泊することになった。(それがテクラ大岩シスターとの出会いであった。その後何度も日本で、アッシジで、ローマでお会いして、今も交流させて頂いている)このサン・フィリッポ・ネーリ(La Torre degli Sciri)は、3食付きで、修道女がお掃除もしてくれて、本当に恵まれた環境だった。門限が20時は厳しかったが。シチリアやカラブリアから大学生の女の子たちも留学していた。初めてくぐった門を開くと薄暗く、春だったが少し肌寒かった。テレビを見る部屋もあったが、白黒だったのでびっくりした。
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さて、最近FACEBOOKを見ていると”Buongiorno Brava Gente”と叫んで、アッシジの朝の風景の動画とともに、聖書のお話をしてくださるEnzo Fortunato神父様がいらっしゃった。(今はアッシジから他のところへ移られた様子)時々拝聴、拝見している中で、この神父様が、「イエスの聖衣とフランチェスコの僧衣」の本をお書きになったのを知ってすぐに読んだら、とても感動した。しかも表紙がトランスアバンギャルドで有名なMimmo Paladinoではないか。私は、聖フランチェスコの”Cantico delle creature” 「被造物の讃歌」 がとても好きで、聖キアラが命をひきとったサン・ダミアーノ教会で、その場所に行ったら、とても強い感じるものがあって、神秘体験をした。毎年、お友達とかつて聖フランチェスコとその兄弟たちが瞑想した「カルチェリの庵」も新年に行くと、すがすがしい気持ちになる。アッシジのフランチェスコ(1182−1226)は知らない人はいないと思うが、フランチェスコ会の創設者でカトリック修道士。裕福な毛織物商の家に生まれたが、全てを捨てて、僧衣一枚で、祈り道に入った。この本には、聖フランチェスコのつぎはぎだらけの僧衣のそのつぎはぎの布が、聖フランチェスコを生涯支えた、聖キアラの僧衣をあてがっていたというもの。
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私はこの話をすでに日本に帰られて、女子パウロ会の出版のお仕事をされているテクラ大岩シスターにして、本を日本へ送って、日本語にして多くの日本人にも読んで欲しいと申し上げたら、すぐに訳してくださった(太田綾子さんの訳)、こうして日本語の本も出版された。テクラ大岩シスターありがとうございます。Padre Enzo Fortunato神父様ありがとうございます。日本には、裂き織りやつぎはぎの着物がたくさん残っており、それは現代でも美しい価値がある。金継ぎも壊れたものを捨てないで、より価値を高めるという世界に誇る文化がある。ものが溢れる現代、経済危機と戦争の複雑な状況の中で、考えさせられる本だと思う。みなさん読んでください。
# by Art-Chigusa | 2023-02-28 19:51 | 私のメモから

Addio a Mr. Ilario Castagner

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ペルージャの名誉会長だったカスタニエール元監督がお亡くなりになりました。2023年2月18日、ペルージャのホームでのダービー、テルナーナ戦の試合中に、息子フェデリコさんから連絡が入りました。(ペルージャは3−0でこの試合に勝ちました)1998年中田英寿元日本代表選手がペルージャに移籍した時に、中田選手を育てた監督です。中田選手は、その後、ペルージャでボスコフ監督、パサレラ監督、ASローマでカペッロ監督、パルマでプレンデッリ監督、フィレンツェでモンドニコ監督、ボローニャではマッツォーネ監督など、本当に多くの優秀な監督と仕事されました。そのプロ意識、独特の美意識、「決して倒れない」強靭な意志は、高く評価され、それぞれの監督たちと強い信頼関係を築いていました。それでもカスタニエール監督が一番中田選手を活躍させることができたと私は思います。カスタニエール監督は、選手時代にはFWだったので、攻撃的なゲームが印象的です。中田選手はピッチを蛇のように敵のマークをすり抜けて走り、正確なドリブルで駆け抜け、精度の高いパスで、ファンを魅了させていました。ゼ・マリア、テデスコ、オリーヴェ、ペトラーキなど優秀な選手たちが、中田選手を支えて、小さなクラブながらも、観ていて楽しめるいいサッカーをして、時にはユベントスやミランなど強いチームにも負けない団結と強さを持っていました。カスタニエール監督は、記者たちからも慕われていて、監督は「シニョーレ」と言われていました。このシニョーレには色々な意味があります。尊敬語ですが、聖書の神の意味も含みます。簡単に言えば、英語ではジェントルマンのことですが、カスタニエール監督は、誰に対しても、優しく、敬意を持って接する人でした。今や日本代表や女子サッカーの活躍で日本のサッカーは一目置かれるようになりましたが、当時はまだサッカー的には遅れていた日本の記者たちとも、カスタニエール監督はいつも敬意を持って対応してくださったのを覚えています。私は当時サッカーについて知識が浅く、いつもイタリア人記者たちの背後で質問を聞いていて、ほとんど監督に質問しないでいたことが多かったのですが、しばらく経ったある日、ほどんどの記者がいなかった時に、当時は若く、好奇心旺盛でサッカーへの興味に満ちて勉強していた私が、監督に色々質問した日がありました。監督は「君はやっとエキスパートになってきたね」と言ってくれたのです。とても嬉しかったし、なんと励みとなったことでしょう。それは監督が「シニョーレ」だったから、その寛大さと日本の文化への理解があったからでした。もちろん中田選手がまず監督から絶大な信頼と敬意を持たれていたから、私たちも仕事がやりやすかったのは言うまでもありませんが。その後監督とは、TVのコメンテーターをされていた時スタジアムでお会いしたり、お元気な姿を拝見していました。ペルージャのためにサッカーを超えて、多大な貢献をされたカスタニエール監督のご冥福をお祈りします。カスタニエール監督と中田英寿選手の情熱のペルージャの思い出は決して忘れないで永遠に私の心に残っています。カスタニエール監督ありがとうございました。
# by Art-Chigusa | 2023-02-22 19:14 | Sports
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ペルージャ在住 アーティスト


by Chigusa Kuraishi
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