イタリアの風:Chigusa Kuraishi Blog

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La Biennale di Venezia 55.Esposizione Internazionale d'Arte

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第55回ヴェネツィア・ビエンナーレ 国際美術展を観て来ました。
6月1日から始まり、あとわずか11月24日で終了します。
もう観られなかったものもありました。賞を受賞したリトアニア館を観に行ったら、
9月15日までということで、観られませんでした。
ヴェネツィアに到着した夕方、凄い雨で、アクアアルタ(水位が高くなる)警報が出ていましたが
翌日、快晴に恵まれました。

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私が一番気に入ったのは、フィンランド館のTERIKE HAAPOJAのインスタレーション。
エコロジカルな問題を喚起。題はANATOMY OF LANDSCAPE
私の好きなMARGUERITE DURASの“WRITING”の文字の映像が
泡のように消えたり、現れたりするのが美しい。
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特別表彰を受賞した日本館の展示は、他の国とは違った、今までにない新鮮さが感じられました。
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1975年生まれのロサンゼルス在住のアーティスト 田中功起のビデオ、インスタレーション。
キュレーターは蔵屋美香(東京国立近代美術館、美術課長)
Abstract speaking-Sharing uncertainty and collective acts
抽象的に話すこと、不確かなものの共有とコレクティブアクト展
*以下 田中氏のアーティスト ステートメント参照
これを読んで、私たちも「何ができるのか」をもっともっと真剣に考えなければいけないと思いました。
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第55回のヴェネツィア・ビエンナーレの総合キュレーターのマッシミリアーノ・ジオーニは、
2010年第8回Guangiu Biennale (South Korea)のディレクターだった人で、アジアのアートに詳しい。
ART iT のインタビューで、「21世紀の文化に関心を抱いていれば、
誰もがアジアからはじめる事が重要だと考えます」と言っています。
「アートではない文化的工芸品からオブジェをも含むものへと拡張していきました」
「イメージの生産や消費をテーマとする」
「現在や未来のアートに焦点を合わせていると同様、歴史や記憶の掘り起こし」
「アートが私たちをどこへ連れて行くのかが大事で、私たちが自分自身の起源を乗り越えるのを助けてくれるものに興味がある」というジオーニ氏のそれは、私自身の創造する際の永遠のテーマでもあります。
この美術展の総合テーマである“エンサイクロペディックス・パレス”
「自己と宇宙、個人的なものと共同的なもの、個別的なものと一般的なものなどの一致、といった想像の飛躍について探求するもの」と説明しています。

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最高に美しいヴェネツィアでのビエンナーレ、刺激を受けて帰路につきました。




【アーティスト ステイトメント】
例えばぼくらは自分自身の中に複雑な問題を抱えている。それは個々の固有の問題なわけだし、それが誰かの問題と交わることはあまりないだろう。問題はいつも痛みを伴い、その痛みは他者とは共有できないものだ。例えば同情や共感は、痛みを持つ者と持たぬ者のボーダーをむしろ強化してしまう。同情のベクトルは常に痛みを持たぬ者から持つ者へと向かっている。逆はありえない。だからぼくらは同情ではなく、別の方法でもって関わりを模索するべきだろう
震災から一年以上が経過したが、いまだに瓦礫の処理や仮設住宅、原発の問題も含めて状況は続いている。震災の後、たくさんのアーティストや建築家、音楽家、映像作家などが現地でボランティアをしたり、自身の活動を反映した行動を起こしたりしている。それは一時的な反応ではなく継続的なものだ。今年の建築ビエンナーレの日本館でもそうしたプロジェクトのひとつが発表される。震災後の最初の数ヶ月、多くの日本人アーティストが抱いた問いは「アートはこの出来事に対してなにができるのか」であった。そしてその問いはいまも多くのアーティストの中で問われ続けていると思う。直接的な行動を起こすものもいれば、以前と変わらぬ活動を続けることで間接的に応えようとするものもいる。
ではこのぼくには何ができるのだろうか。いや、ぼくにとっての問いはむしろ、この出来事がぼくらにもたらしたものは何かを考えることだ。そのひとつは、おそらくいままでの日本にはなかった社会的に共有されうる強烈な文脈が生じたということだ。この文脈を通して日本社会を見るとき、ぼくらの何気ない行為は、あの日を境に別の背景を持つことになった。例えばぼくらはときに階段を使う。エレベータやエスカレータを使わずに階段を使う。いままでならば健康のためやエコロジーのためと言うこともできただろう。でも、いまこの日本において、「ただ階段を上り下りする」という行為は別様に読み替えることができるはずだ。それはいわば電気(=原子力発電)に頼らないという態度でもある、もちろん本人たちにはその意図がないのだとしても。たくさんのひとが階段を下りる姿を東京の駅で見かけたとき、ぼくにはそれがある種のデモンストレーションに見えた。新しい行動を起こすのではなく、いままでのぼくらの行為を見直し、抽出し、背景を読み替えること。そうすることによって、特定の地域における特殊な問題は広く一般化され、誰も無視することができなくなるだろう。
田中 功起
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by Art-Chigusa | 2013-11-10 10:11 | Mostra
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ペルージャ在住 アーティスト


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